元信託銀行・株式ファンドマネージャーから No.24 <アフガニスタン 地政学上の意味と、アメリカ軍撤退の意図>

2021年10月06日

 

元信託銀行・株式ファンドマネージャーから No.24


<アフガニスタン 地政学上の意味と、アメリカ軍撤退の意図>

 

 まず、地政学的観点からアフガニスタンを見てみます。

 

 ひと言でいうと、それは交通の要所ということです。19世紀から20世紀にかけて英露両国によるユーラシア大陸の覇権を巡る攻防である「グレートゲーム」は、交通の要所であるアフガニスタンの争奪抗争を意味しています。

 

 アフガニスタンは、中央アジアと南アジアの交差点に位置する内陸国であり、東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、北東に中国と国境を接しています。パシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人などの民族からなる3,900万人の国民が、国土の大部分が急峻な山岳部と礫漠(主に石を主体とする砂漠)という地で暮らしています。

 

 この交通の要所は、ヒンドゥークシュ山脈からなる山岳部にあって、アフガニスタンの首都カブールからジャララバードを経てパキスタンのペシャワール、その首都イスラマバードへと続く道の、その国境にあるカイバル峠です。外部からの侵入が容易でなかったインド世界に対する数少ない侵入路となっています。

 

 紀元前1,500年前、中央アジア、イラン高原からこのカイバル峠を超えて、西北インドのパンジャーブ地方にアーリア人が侵入しました。また、紀元前326年頃には、アレキサンダー大王がギリシアからこの峠を抜けてパンジャーブ地方にまで侵攻しました。アレキサンダー大王が最初に結婚した后であるロクサネは、バクトリア(イラン北東部の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタンおよびトルクメニスタンの一部)王女でした。

 

 カイバル峠は、西洋からシルクロードを経てインドに向かう際の交易路としても重要な役割を果たしました。また、唐時代の僧、玄奘三蔵法師も629年にカイバル峠を超えてインドに留学しており、この峠の麓のガンダーラ地方で初めて仏像が作られました。16世紀前半には、ウズベク人の侵入を受けて滅亡したティムール朝の残党がインドへ侵入し、ムガル帝国を建国しました。

 

 19世紀前半には、アフガニスタンまで影響力を広げようとしたイギリスがこの地を戦場としてアフガニスタン人と争いました(第一次アフガン戦争)。また、1880年、第二次アフガン戦争を経てアフガニスタンを保護国としたイギリスは、この地に交通網を整備し、現在はアジアハイウェイ1号線の一部となっています。

 

 1979年12月24日、ソ連がアフガニスタン侵攻を開始しました。ブレジネフ・ソビエト連邦共産党書記長が、領内の中央アジア諸国にイスラム原理主義が飛び火することを恐れての侵略であるとされていますが、アメリカ・カーター政権のズビグネフ・ブレジンスキー国家安全保障担当大統領補佐官がソ連を誘い込んだともいわれています。

 

 アメリカ合衆国は反共を名目としたサイクロン作戦により、イスラム主義のムジャーヒディーンに対して、資金・武器援助、戦闘員訓練を行いました。そして、このムジャーヒディーンにサウジアラビアから参加していたのが、若き日のウサマ・ビン・ラディンです。ウサマ・ビン・ラディンは、1988年に国際テロ組織「アルカーイダ」を設立しています。タリバン勢力も米同時多発テロ直前までは、アメリカ合衆国との関係は良好でした。

 

 アフガニスタンの国土の大部分が急峻な山岳部と礫漠で構成されているため、地域的な閉鎖性が強く、タリバンの戦士も普段は民族が暮らす村で生活しているようです。アフガニスタンの国境はイギリス支配の名残であり、他の多くの旧植民地同様、民族対立の火種を残す形(同じ民族が、パキスタンやタジキスタンにまたがるなど)で引かれています。アメリカ軍やCIAなどの諜報機関がアフガニスタン国軍にかなりの資金・武器援助、訓練を施したといいます。しかしながら、結局は、国民としての意識よりも部族意識の方が勝っており、同じアフガニスタンでも違う部族地域を守ることに消極的な意識を変えるまでには至らなかったようです。

 

 次に、アメリカ軍撤退の意図と今後の可能性について考えてみます。

 

 2001年9月11日に起きた米同時多発テロを受け、テロを行ったとされるイスラム過激派組織「アルカーイダ」をかくまうアフガニスタンのタリバン政権に対して、同年10月NATOが自衛権の発動を宣言します。アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆したことを起点とするアフガニスタン紛争は、2020年2月にドナルド・トランプ前政権とタリバンが和平合意、ジョー・バイデン大統領は2021年4月14日に節目の9月11日までにアフガニスタンの駐留米軍を完全撤退させると表明しました。

 

 アメリカ軍が撤退をする過程で、アフガニスタン紛争中にアメリカに協力し、今後タリバンから報復をされることを恐れたアフガニスタン市民がカブール国際空港に集まり、すし詰めの避難民を乗せたアメリカ軍輸送機が追いすがる市民を振り落としながら離陸するという映像は世界中に衝撃を与えました。秩序だった撤退を行うと強弁していたバイデン大統領は批判にさらされ、支持率を落とす一つの要因となりました。

 

 アフガニスタン紛争をともに戦った英仏独豪等同盟国やアフガニスタン国民の人権に対する配慮が欠けたぶざまな撤退劇の裏で何があったのかについては明らかになってはいません。断片的な情報をつなげると次の通りとなります。

・アメリカ軍の撤退期限が迫るにつれ、タリバン勢力が支配地域を拡大し全土を支配下に置いたことを宣言。

・「平和的降伏」を求められていたガニ・アフガニスタン大統領が恐れをなし、8月15日にアフガニスタンから

 隣国に逃亡。

・もともとアフガニスタン人という国民意識が薄い(部族への帰属意識の方が高い)アフガニスタン国軍が瓦

 解。

・本来、アフガニスタンを守るべき、アフガニスタン国軍が瓦解した後、タリバンからも治安維持を要請されて

 いたアメリカ軍がまるで停電するかのごとく機能することをやめた。

 

 アメリカ合衆国のアフガニスタンからの撤退は、バイデン政権が決定したことではありません。アメリカ軍は10年以上前からアジアへのシフトを志向していました。その象徴は、オバマ政権時代の2010年に行われたヒラリー・クリントン国務長官による「アジアへの基軸転換(ピボット)」演説です。この演説でクリントン国務長官は、アジア太平洋地域での領土や海洋をめぐる紛争などに対応すべく、アメリカ軍の兵力態勢を強化すると宣言しました。

 

 ところが、オバマ政権は、上述の演説後もアフガニスタンの部族の問題に深入りしすぎてしまい、アメリカの大戦略を迷走させてしまいました。それが、トランプ政権で中東への介入は無益であるとの結論が出され、軍事部門の関心も本筋である「アジアへの基軸転換」に戻り、いまやその中心は中国となっています。

 

 トランプ前大統領がタリバンと駐留米軍の撤退に合意し、秩序だって撤退することが見込まれていたにもかかわらず、バイデン政権は最後の細かい詰めが面倒になったと思われ、ぶざまな撤退劇となりましたが、撤退の方針が決まった2010年以来の米国の戦略の大転換は達せられたと言えましょう。

 

 2021年8月31日、アメリカ合衆国はアフガニスタンからの撤退を完了しました。

 

 米国国内のインフラ整備を疎かにしながら、アフガニスタンのインフラ整備やアフガニスタン国軍への支援・武器供与などに約20年間で4兆ドルとも7兆ドルともいわれる大金を注いだアフガニスタン紛争は終結しました。

 

 それまで、アメリカはこの交通の要所であるアフガニスタンに多くの軍事基地を保有していました。北のロシア、東の中華人民共和国、南のインド、西のイラン、中東諸国、アラビア海、ペルシャ湾に睨みを利かせるには、絶好の場所だったわけです。

 

 しかしながら、シェール・ガス、シェール・オイル革命により、米国内での原油需要が賄えるようになったため、アメリカ合衆国にとっての中東地域の重要性は低下しました。その結果、アメリカ合衆国は「アジアへの基軸転換」という戦略転換を行い、アフガニスタンから撤退し、アジア太平洋地域での領土や海洋をめぐる紛争などに対応すべく、この地域でのアメリカ軍の兵力態勢を強化することにしたわけです。

 

 ただし、アフガニスタンが交通の要所である点は変わっていないため、タリバンに支配地域を譲り、混沌とした状態をわざと作った可能性があります。アフガニスタンには、北東部にワハーン回廊という東西に細く伸びた地域があり、ここが中華人民共和国の西部である新疆ウイグル自治区と直接、国境を接しています。イスラム聖戦(ジハード)の名のもとに、新疆ウイグル自治区にイスラム戦士がなだれ込めば、中華人民共和国の前面にある東シナ海、南シナ海、太平洋には米軍を中心とする多国籍軍が展開しているため、中華人民共和国を東西で挟撃する可能性を残していると言えます。

 

(令和3年10月)

 

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