元信託銀行・株式ファンドマネージャーから No.20 <筆者がイメージする典型的な米国人の意識構造>

2021年08月31日

 

元信託銀行・株式ファンドマネージャーから No.20


<筆者がイメージする典型的な米国人の意識構造>

 

 筆者が、エコノミストやファンドマネージャーだった頃、来訪や出張を通じて、投資会社、証券会社、調査会社、中央銀行、政府機関等に所属する米国人とお会いする機会がありました。彼ら・彼女たちに対して筆者が抱く印象は、明朗快活、ユーモアに富み、勤勉、他人への思いやりの気持ちがあるといったものです。もちろん、古今東西、そのような気質は、会った人次第ということになろうかと思いますが、筆者の主観的な印象として、おはなしを続けさせていただきます。

 

 上述した筆者の米国人の印象は、倫理観、職業意識の高さという面で日本人と共通するものが多いと感じております。

 筆者が主観的にイメージする日本人像は、具体的に説明できない「お天道様が見ている」とか「ご先祖様に顔向けできない」といった時空を超越しつつも身近に感じられる不思議な意識構造のもとでの倫理観、また、職業については、単に所得を稼ぐという手段ということにとどまらず、社会における「お役目」であり、精進し我を忘れて働けば、働いている本人が清々しい気持ちになることができる尊いものという意識を持っているといったものです。もちろん、筆者が若い時からそう思っていたわけではなく、「お勤めご苦労様です」という言葉の意味を自分なり解釈できるような年齢になったことが大きいと思います。

 

 さて、上述した筆者の日本人像については筆者が日本人であることから、自然と納得できるわけですが、米国人の意識はどのようなものでしょうか?

「アメリカ」(橋爪大三郎氏、大澤真幸氏の両氏の対談形式で記述されている本:河出新書)の内容を引用する形で、アメリカ大陸に入植した当時の人々の意識を引き継ぐ米国人の意識構造を考えるためのヒントについて、以下にあげていきます。

 

・ ルターの宗教改革以後、欧州で起こった宗教対立、宗教戦争を経て、聖書に基づく理想の社会、理想の国を

  つくりたいと思い立ったピューリタン(ピルグリム・ファーザーズ)の神話というべきものが米国という国

  の出発点となる。

 

・ メイフラワー号が目指したのは国王の特許状が出ていたヴァージニア植民地だったが、コースが北にそれて

  今のマサチューセッツ州プリマスに漂着した。メイフラワー号には、敬虔なピューリタン以外に、植民地で

  職を得る目的で乗り込んだ人びとがいた。到着予定のヴァージニア植民地には国王の法律、社会秩序があっ

  たはずだが、無法地帯に上陸したため、ピューリタンもそうでない人びとも含めて、メイフラワー契約を結

  んだ。これは、契約によって社会をつくるという、社会契約説を地で行くようなやり方になり、アメリカの

  雛形が偶然できてしまった。

 

・ 当時は、旧約聖書をみなが読んでいた。旧約聖書を読み解くと、神と人間の関係は契約であり、大事なとき

  には契約を結ぶという考え方が基本にあった。まったくゼロから社会をスタートするには、聖書の真似をす

  ることにより、納得感が得られやすかったのではないか。

 

・ ピューリタンはイギリスのカルヴァン派であり、カルヴァン派の流れをくむ人の人々の主張は予定説。つま

  り、救われる人/救われない人は、この世界、時間の中にいない神が、天地創造(神にとっては、天地創造の

  ときも終末のときも同じ)のときに、「ジョン、お前は救われる」「メアリー、お前は救われない」と決ま

  っているとする予定説の前提に立ち、神がこの世界を支配していることを真に受け止めることができるとい

  う意識構造を持っている。

 

・ アメリカのプロテスタント教会の組織の在り方に着目して大きく分けると二通りある。ひとつは、長老派

  (プレスビテリアン)のようなあり方で、教会の組織を、牧師と平教徒の代表である長老が運営する。全

  体(大会)があって、地区(中会)があって、地域(小会)があって、教会がある。末端の教会は、人事、

  予算、礼拝のやり方、活動方針等上部の指示に依存する。ピラミッド型の組織。

 

・ もうひとつは、会衆派(コングリケーショナル)のようなあり方。上部団体や本部の権限を一切認めず、

  末端の教会それぞれの会衆の自治を最も重視する。予算、人事、礼拝のやり方、教義まで自分達で決める。

  直接民主制の組織原理であり、会衆から集めたお金の使途をきちんと会計報告し、牧師の選任も会衆が委員

  会をつくって自分たちで行う。アメリカ合衆国ができる前に、選挙のこうした伝統が根づいていたことが、

  アメリカ社会の骨格を形づくった。アメリカの民主主義、資本主義の原則は、会衆派の教会原則から出てい

  る。株主総会は、会衆派の教会の集まりにそっくりである。

 

・ 上述のキリスト教に加え、アメリカ的な思考であるプラグマティズムがある。プラグマティズムのポイント

  は、ある概念によって何が意味されているかを考えるときに、その概念の対象がどのような結果を我々の経

  験にもたらすかが決定的に重要だということ。それが我々の経験にとって良い結果をもたらすのであれば、

  それは真であり、思うような結果をもたらさないならば、それは偽であるというように考える。率直な経験

  への信頼である。

 

・ 予定説が資本主義で機能するポイントは次のようになる。本当は自分が救済されているか呪われているかわ

  からない。しかし、「自分が救済されている」というふうに仮定する。それを仮定し確信することによって

  生じた行動が世俗内禁欲になる構造である。この構造は、まだ実証されていないことについて仮に真理であ

  ると仮定し、そののち、そこから出てくることを実際にやってみる=「アブダクション」。

 

・ 発明も「アブダクション」と同じ理屈である。発明に至るプロセスにおいて、事前に発明が成功することは

  わからない。まして、発明した製品が市場で承認されるかどうかはわからない。しかし、成功するはずだと

  仮定した上で、成功するはずだとしたら何を考えなければいけないかと論理的に推論する。「成功するはず

  だ」ということについて、客観的に見れば不確実であり、本人もそのことを知っているのに、それでも、現

  実になるかのように仮定する。その結果の場所に仮定された現実から、いわば、因果関係を逆にたどるかた

  ちで、行動している。

 

・ 上述のような意識構造のもとでは、予定説、プラグマティズム、そして資本主義、場合によってはフロンテ

  ィア精神、アメリカン・ドリームなどもひとつの同じ論理の形式に貫かれている。

 

・ 予定説とプラグマティズムと資本主義を貫くのは、神の支配である。予定説とは、人間の救済を、神が決定

  しているという考え方である。プラグマティズムは、この自然や人間を神が造り、その人間一人ひとりに個

  性を与え、でもちゃんと共存して幸せにくらしていけますよ、という枠組みである。資本主義も、地上で人

  びとが生存するための経済活動を神が支配していますよ、という考え方である。アダム・スミスが、市場に

  は「見えざる神の手」が働いていると述べている。

 

・ 市場の意思は、神の意思である。神の意思は「なるべくたくさん隣人愛を実践しなさい」。だから、隣人愛

  の実践ということもあって、人びとに十分な報酬や利潤が与えられることになる。

 

・ では、人びとは、どの職業に従事すればよいのか?これも最終的には、神の意思である。しかし、直接的に

  神が教えてくれるわけではない。そこで暫定的に「私は靴屋だ」とか「私は野球選手だ」とかを決める。才

  能があると仮定して、「これを私は一生懸命やる」と決める。才能は、神がこの人にそういう能力を与え

  た、ということ。でも、経験的には、毎日毎日そのことばかりやるのでだんだん上手くなって、周囲から「

  才能があるのですね」と言われるようになる。客観的に見れば、因果関係が逆になる。

 

・ 神の支配の考え方によれば、まず才能があって、その才能を活かすべくその職業につき、神の命令に従って

  毎日務めるので、やっぱり才能がありましたということになる。アメリカは才能の神話の国で、天才やギフ

  トやジーニアスがあると考える国。裏を返せば、努力(人のわざ)でのみ、目標が達成できるとは考えな

  い。

 

・ 一生懸命働くこと。職業活動が自分にも他者にもよいことで人生の目標であること。日本社会もそういうこ

  とを要請しており、外見はとてもそっくりである。しかし、神の支配を出発点にプラグマティズムを実践する

  と、才能があると思って、一生懸命努力したけれど、実は才能がなかった、ということを許容しなければな

  らない。そうやって納得していく。「一生懸命努力したけれど、結果が伴わなかった。これは運(ラック)

  がない。運とは、神の意思である。神の意思ならば、人間の努力は無意味になる。

 

 かように、日本人には馴染みのない考え方があることがわかります。

 

 この本を読んだあと、筆者が米国人から、別れ際によく言われた「good luck!」の言葉には、深い意味が隠されていたことを知りました。よく言われる「失敗を恐れない姿勢」というのも、米国人特有の意識構造の中で育まれてきたのでしょうか。

 

 米国には、神の意思のもとに、勤勉に働くファンドマネージャーやアナリストを多く抱える立派な運用会社があるようです。そんな運用会社に資産を託すことも、伝統的な米国人にとっては、最終的には神の意思によるものと考えているのかもしれません。

 

(令和3年9月)

 

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